先ず忘れ得ぬ言葉が3つございます。それは「士魂商才・和魂洋才・教養ある経済人」です。
座右の銘と申しましょうか、忘れられない言葉でございます。「士魂商才」は、高松高商が開校された時に、初代の校長先生が隈本先生でして、隈本先生が生徒の控室、集会所に、扁額にこの士魂商才という額を掲げられました。
ご承知のように、徳川幕府は15代徳川慶喜で大政奉還、明治政府が始まったわけでございますが、明治4年に廃藩置県ということで、お殿様が全部廃業ということになりました。
そして仕えた侍、武士が、失業あるいは就職ということになりまして、極端な場合には文字を知っているからということで、印刷の活字を拾う業種になった侍もいたそうであります。北海道あたりの本に書いてあります。

次に「和魂洋才」ですが、これは慶應義塾を創設した福沢諭吉の言葉でございます。色々と大言海をめくりまして、この言葉があるかなと思って調べましたら、和魂洋才はありませんが、和魂漢才はあります。
ということは、1200年前に、菅原道真の当時でございますが、遣唐使とか中国と交流が非常に盛んでした。この頃、中国に色んな文化、知恵を教えてもらったわけです。
1200年前には中国に教えられたから和魂漢才が載っておりました。福沢諭吉は、明治元年が今から130年ほど前でございますから、その前に洋行を3回しております。アメリカ2回、それからヨーロッパ1回。3回の海外視察によりまして、こういう言葉が生まれたわけだと思います。
日本人の魂と西洋の才能ですね。福沢諭吉の本を見ますと、「窮理の学(科学)」ということになります。サイエンスです。福沢諭吉は、これからの明治時代の日本人はサイエンスをどんどん学んで行かなければならない、すなわち、文科系と理科系の考え方を持つバランスのとれた人間になると、開発能力も生まれるであろうということで、理科系、文科系、両方の勉強をしなさいという考えがあったのであります。
福沢諭吉は、3回の洋行で西洋の知識をどんどん吸収しようと。明治の初めですから、日本は非常に後進国です。ちょんまげをやっと切った頃です。「ざんぎり頭を叩けば文明開化の音がする」というような時代でございまして、西洋の知識をどんどん吸収しようとした時代でございます。福沢諭吉は、和魂洋才ということで、明治時代の教育者、啓蒙家、そういうことになったわけでございます。
それから「教養ある経済人」でございますが、これは戦争前の東京商科大学、ただ今の一橋大学でしょうか、そこに中山伊知郎教授がおられました。
ちょうど私の5歳上の従兄が、その中山先生のゼミナールに入っておりまして、
また同級生に、高松の先輩で15回卒の中川幸次さんは従兄と同じだったと思いますが、日本銀行に入りまして、その後野村総研へ入られたと思います。
2人が私に、高松が終わったら一橋へ来いという手紙をくれました。私は頭が悪いものですから、慶應の方へ行きまして、一橋は見事にすべり、そのキャンパスを見てきただけでありました。
従兄が盛んに言っていたことは、中山先生のゼミナールでは、シュンペーターの純粋経済学の話をしてくれました。与件と変動、この言葉を印刷屋の商売に当てはめてみたら、予測できるものと予測できないものといった考えに持って行けました。
毎日の商売はだいたい読みができますが、読みのできないものは印刷業界の未来だとか、あるいは毎日の中で、突然色んなことが予測できないもの、というふうに、自分の商売でも噛み分けました。
その与件と変動という言葉は今でも忘れることが出来ません。この頃の本ではシュンペーターの変動は、イノベーションとかいう言葉になっているようですから、そういう方向で印刷業界もどんどんイノベーションでやって行かなければいけないというようなことも考えております。「士魂商才・和魂洋才・教養ある経済人」の3つは忘れ得ぬ言葉です。(収録は平成6年11月22日)