創刊(1946年3月24日)から数年後となる約66年前の紙之新聞は弊社にも保存されておらず、戦後復興期の紙業界の様子を知るための貴重な資料となりそうだ。
発見されたのは、48年10月13日付(第135号)、49年10月19日付(第236号)、同12月7日付(第249号)、同月17日付(第252号)。紙面は活版印刷で、タブロイド版(現在はブランケット版)4㌻の編集となっている。
洛東遺芳館は江戸期に京都の豪商だった柏原家(現在の柏原紙商事)の旧邸。新聞は現在事務所として使用する室内の引き出しの底に敷かれてあった。
夏前に大丸館長が部屋の整理中に見つけ、「年号を見たら昭和20年代。大切な記録かもしれない」と保管していた。
紙は黄色く変色しているものの、活字がはっきり読める状態で残っていた。252号に限り新聞を半分に破って引き出しに敷いたとみられ3、4㌻目は失われているが、残る3部は全㌻ある。
当時の紙面内容については、紙小売商の無制限登録制の改善を訴えた上申書提出や新聞出版用紙の統制廃止法案、仙貨紙による夕刊発行競争の熾烈化、紙類に対する物品税全廃運動、日配閉鎖に伴う出版取次業界の混乱など、戦後の産業構造改変の動きが色濃く映し出された記事が目立つ。
また、王子製紙の解体・分割についての論説や本州製紙(現王子製紙)取締役だった市川義夫氏のアメリカ見聞記、GHQ民間情報局提供の海外紙業情報などが見受けられる。
当時も現在と同じ週2回発行で、題字下の新聞料金には定価一カ月60円、一年600円と記されている。
紙之新聞の創立者は河北警二氏(故人)。同氏は戦後の統制経済下に、紙統制の撤廃と紙商の商権復活を旗印に新聞を創刊した。当初「悟空生」のペンネームを名乗り、紙に関する諸問題を取り上げて時局を論じたことで知られる。