2016年10月28日

〈回想録〉石川忠富士精版印刷会長➀

石川忠富士精版印刷会長h28.7.15.JPG 石川忠富士精版印刷会長は大正14年の生まれで、既に卒寿を越えられた。同氏の母校である高松高等商業学校(現在の香川大学経済学部)が設立されたのは大正13年である。平成6年11月26日に香川大学の講堂で創立70周年記念式典が行われた。そこで本科第20回卒業の石川会長(当時社長)は経済界の立場から記念講演を行った。これによって、規模こそ中堅ながら自らの会社を業界屈指の有力企業に育て上げた石川氏の足跡を辿る。(収録は平成6年11月22日)

 高松高商から慶應へ

 ご紹介頂きました石川忠でございます。大阪に住んでおります。今日は錦秋の候、温かい11月22日でございます。大阪では今日は道修町で神農さん(薬の神様)のお祭りの日でございます。
 いつも大阪は御堂筋がメインでございますが、御堂筋の銀杏も、今年はまだ落葉がしきりではありません。こういうことで、暖かい大阪からここ高松におうかがいしたわけでございます。
 私は昭和20年の秋、卒業証書を頂いております。昭和18年に旧制中学5年を終わりまして、この高松高等商業学校へ入学させてもらいました。その当時は戦争中でございますから、この専門学校も2年半ということで、3年が半年繰上げになりました。
高松高商の玄関(1935年)h28.10.6.jpg その2年半の中で、1年は勉強いたしました。2年は6月になりますと、淡路島で戦闘機の飛行場を作るからということで、あちらに3カ月ほどトロッコを押しに参りました。淡路島の湊という町でございます。
 それが終わりまして、今度は福岡県、博多の郊外に雑餉隈(ざっしょのくま)という所がございます。そこに小倉造兵廠がございまして、飛行機の機関砲を作っております。1週間の昼夜交代で、私は仕上げ工ということでヤスリを使っておりました。皆同級生がその雑餉隈の造兵廠で働きました。
 戦争がだんだん激しくなりました昭和19年、順番に軍隊へ行きまして、私も昭和20年の2月に兵隊に行きました。高知県へ入りまして、すぐ注射をして満州ですね、今の中国の東北部、満州へ参りまして、そこで2カ月新兵教育を受けました。
 寒いところですから、雪が全部メリケン粉のようになります。マイナス20度、30度になりますと、もう粉雪がツルツル滑ってメリケン粉のようになる。そこで2カ月、新兵教育というのがありまして、また高知県へ帰ってきまして、穴を掘っていましたら戦争が終わった、ということで命拾いをしました。
 高松で勉強したのは1年3カ月。あと、勤労奉仕が8カ月から9カ月、それから兵隊6カ月。ですから私が慶應に入った時には、皆さんと同じ、毎朝学校に行って大講堂で講義を聴くわけですが、皆軍服姿であります。陸軍の将校の軍服か海軍兵学校で、もう軍人だらけです。そういう3年間でございまして、そこに座るだけでグループができまして、友達になっていったわけでございます。
 慶應には3年いたのですけれども、休講ばかりなんです。ですから行っても仕方がないなと言って、よく銀座へ出たり、日比谷へ行って、アメリカ映画、それからヨーロッパ映画を見ました。
 戦争中抑えていたものですから、リベラルな映画がどっと封切りされたわけです。休講があればありがたいということで、アメリカとヨーロッパの映画、「巴里祭」とか、ジャン・ギャバンの「望郷」とか、フランス映画が多かったですけれども、「風と共に去りぬ」なども見に行きました。
 それから歌舞伎はやっていました。東銀座に東京劇場がありまして、歌舞伎を見る。それから青年歌舞伎がありました。これは三越本店の中に小劇場がありまして、そこで青年歌舞伎です。
 浅草へ参りますと、伴淳三郎とか、いろいろコメディをやっているわけです。休講の日は、地下鉄1本で浅草も行ける、それから銀座、日比谷、あるいは新宿へ行くというようなことで、映画ばかり見て楽しんでおりました。
 そういう勉強をしない者が、今日皆さんに、井原先生(井原健雄経済学部長)がお話をしろということでございますので、いろいろ記憶も大分薄れておりますし、付け焼き刃でございますが、そのへんは一つお許し頂きまして、ただいまからレジュメに沿って、お話をしたいと思います。
posted by 泉 at 15:19| Comment(0) | 寄稿 | 更新情報をチェックする

2013年10月21日

〈寄稿〉「銀しゃり弁当」の思い出 田中四郎田中紙管㈱相談役

田中四郎田中紙管相談役(縮).JPG 全国紙管工業組合顧問で田中紙管相談役の田中四郎氏=写真=は若い頃の戦中派。旧制中学二年生の頃は陸軍飛行場の草刈りや防空壕掘り、農家の稲刈りの手伝いなどに動員された。
 太平洋戦争も終わりに近づくと、和歌山の海南にある山で米軍の上陸に備えて陣地構築に駆り出された。仕事は岩盤に多数の細い穴を掘り、それにダイナマイトを仕掛けて爆破。砕けた岩を女学生が「もっこ(網状に編んだ運搬具)」に入れ、それを田中氏らが友人とともに肩に担いで捨てに行った。
 へとへとに疲れたところで昼食の時間となるが、弁当は朝に食べてしまっているので、昼はなし。それを見ていた女学生が「明日から貴方達の弁当を持ってきてあげる」と言ってくれた。
 その弁当は「梅干しの入った『銀しゃり』に玉子焼きと夢に見るようなもの」だった。田中氏は「未だに、その弁当の美味しかったことと可愛かった女学生の顔は忘れることができません」と追想する。
 以下はそういう戦中派の田中氏がみた現代の世相である。

 心がカネに置き換わる 
 「福祉にもっと心を」と叫びたくなるのは、私一人ではあるまい。恵まれない人に愛の手をと、「ゆりかごから墓場まで」国のお世話になることが、最も良い国とばかりに各種政策が行われるようになったようだ。
 65歳以上の人は一丁上がりとばかりに年金が支給され、ちょっと用事にと街に出るには老人バスが用意されている。その一方で、年齢制限のせいで働こうにも働けず、仕事を辞めたのを境に元気をなくしてしまうお年寄りも多い。
 お年寄りの中には、まだまだ自分でがんばりたいという気持ちの人も多いのに、わが日本では、お年寄りから活力を奪う環境が十二分に整ってしまった。
 そればかりではない。目の不自由な人や身障者が一人でも安心して利用できるようにと、点字ブロックや身障者用トイレがあちこちに設置されているが、これらの設備が充実する一方で、かえって身障者と健常者の距離は広まりつつあると思うのである。自分たちは税金を払っている、税金で設備が整ったのだからそれで十分だとばかりに、街中で身障者に手助けをする人はほとんど見かけなくなった。
 しかも、もっともっと福祉を充実させようと福祉目的に消費税を上げようとか、健康保険料率の上限を上げて年収の10%にとかいうことが各種マスコミに取り上げられ、働く人には過酷と思える重税がかけられようとしている。
 私が少年のころは、身内に障害のある子供が生まれれば「お宝が生まれた」と言ったものだった。母はその意味を「兄弟が何かにつけ、不憫に思い、その子の世話をする。それが他人にも親切にできるようになり、その結果兄弟が世話することが多くなり、『お宝』と呼ぶようになった」と教えてくれた。
 ところが今は、そんな思いやりの心は忘れられ、心はカネに変えられてしまった。目の不自由な人の手を引いたり、身障者に手を貸したりすれば、お互いの心も通い合うのに、そんな気持ちのことを根本から考え直す人はいなくなり、すべてがカネの物差しで語られてしまっている。

 強靭な意志を育てる場所がなくなった 
 生活保護を10年も受け、ハローワークに通いながらも、自分に適した仕事がない社会の冷たさを恨む人。趣味のパチンコが嵩じて、会社を辞めたが、失業保険と趣味で、会社勤めよりも余計に稼げるようになったと自慢する輩…。
 ボランティアに誘われて身障者の車椅子押しを手伝い、信号のない交差点に差し掛かり、スピードを上げて通り過ぎる車に「あの運転者は人間じゃないね」と叫ぶ身障者の子供の声を聞き、急に車椅子を押す手が重くなったという女性の声…。
 これらの話を聞くに及んで、当然の権利と思わせる間接援助によって、心の伝わらない福祉社会や、悪平等ともいえるような格差のない社会が広がれば、かえって人間の活力を失うものではないかと思うのである。
 地球上に生きる動物にとって、生存競争にさらされるのは毎日である。「一日為さざれば、一日食わず」は生きる基本である。
 松下幸之助氏は小学三年生で丁稚に出て、子守りをしながら働く意義を知り、電球のソケットを開発し、世界の松下電器を築き上げた。
 本田宗一郎氏も、夜を徹して自動車修理から身を立て、ホンダを創り上げたと聞く。「くやしい」と思う心がなくして意志の確立はなく、意味のないところには道は開けない。強靭な意志を育てる場所が、わが国からは少なくなってしまった。
 ばら撒きの福祉や悪平等を進める社会からは活力が生まれないことは、すでに実証されたように思う。一人ひとりの思いやりと感謝の気持ちが血、肉に活力を与えてこそ、お互いに意志を持った人間が育ち、本当の意味での豊かな社会になるのではなかろうか。
posted by 泉 at 16:59| Comment(0) | 寄稿 | 更新情報をチェックする