高松高商から慶應へ
ご紹介頂きました石川忠でございます。大阪に住んでおります。今日は錦秋の候、温かい11月22日でございます。大阪では今日は道修町で神農さん(薬の神様)のお祭りの日でございます。
いつも大阪は御堂筋がメインでございますが、御堂筋の銀杏も、今年はまだ落葉がしきりではありません。こういうことで、暖かい大阪からここ高松におうかがいしたわけでございます。
私は昭和20年の秋、卒業証書を頂いております。昭和18年に旧制中学5年を終わりまして、この高松高等商業学校へ入学させてもらいました。その当時は戦争中でございますから、この専門学校も2年半ということで、3年が半年繰上げになりました。
それが終わりまして、今度は福岡県、博多の郊外に雑餉隈(ざっしょのくま)という所がございます。そこに小倉造兵廠がございまして、飛行機の機関砲を作っております。1週間の昼夜交代で、私は仕上げ工ということでヤスリを使っておりました。皆同級生がその雑餉隈の造兵廠で働きました。
戦争がだんだん激しくなりました昭和19年、順番に軍隊へ行きまして、私も昭和20年の2月に兵隊に行きました。高知県へ入りまして、すぐ注射をして満州ですね、今の中国の東北部、満州へ参りまして、そこで2カ月新兵教育を受けました。
寒いところですから、雪が全部メリケン粉のようになります。マイナス20度、30度になりますと、もう粉雪がツルツル滑ってメリケン粉のようになる。そこで2カ月、新兵教育というのがありまして、また高知県へ帰ってきまして、穴を掘っていましたら戦争が終わった、ということで命拾いをしました。
高松で勉強したのは1年3カ月。あと、勤労奉仕が8カ月から9カ月、それから兵隊6カ月。ですから私が慶應に入った時には、皆さんと同じ、毎朝学校に行って大講堂で講義を聴くわけですが、皆軍服姿であります。陸軍の将校の軍服か海軍兵学校で、もう軍人だらけです。そういう3年間でございまして、そこに座るだけでグループができまして、友達になっていったわけでございます。
慶應には3年いたのですけれども、休講ばかりなんです。ですから行っても仕方がないなと言って、よく銀座へ出たり、日比谷へ行って、アメリカ映画、それからヨーロッパ映画を見ました。
戦争中抑えていたものですから、リベラルな映画がどっと封切りされたわけです。休講があればありがたいということで、アメリカとヨーロッパの映画、「巴里祭」とか、ジャン・ギャバンの「望郷」とか、フランス映画が多かったですけれども、「風と共に去りぬ」なども見に行きました。
それから歌舞伎はやっていました。東銀座に東京劇場がありまして、歌舞伎を見る。それから青年歌舞伎がありました。これは三越本店の中に小劇場がありまして、そこで青年歌舞伎です。
浅草へ参りますと、伴淳三郎とか、いろいろコメディをやっているわけです。休講の日は、地下鉄1本で浅草も行ける、それから銀座、日比谷、あるいは新宿へ行くというようなことで、映画ばかり見て楽しんでおりました。
そういう勉強をしない者が、今日皆さんに、井原先生(井原健雄経済学部長)がお話をしろということでございますので、いろいろ記憶も大分薄れておりますし、付け焼き刃でございますが、そのへんは一つお許し頂きまして、ただいまからレジュメに沿って、お話をしたいと思います。
