会場入口に卸商道徳の原点である「大商会商道訓」が掲示された。大洋同は昭和27年8月26日発足の大商会、同年10月17日発足の板紙親友会が発展的に解消し、合同して昭和39年7月27日に設立され、現在に至っている。
「大商会商道訓」は昭和33年6月12日に制定された。制定当時の大商会会長は高田洋紙店(現高田)の石井繁夫氏で、大洋同初代会長にも就任した。この商道訓は後に昭和35年5月14日、日本洋紙商連合会において、一部字句訂正の上採択され、「卸商商道訓」となり、現在に生きている。共存共栄の精神を柱に紙卸商の商売の基本について示している。
主催者代表で藤本大洋同理事長(美濃紙業社長)は、「同業会は東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開業した昭和39年に大商会と板紙親友会が合併し、100社で発足。高度成長期の昭和55年には139社とピークを突いた。しかし1990年にバブルが崩壊し、2008年のリーマン・ショック、2014年の東日本大震災と激震が続いた。
最近は少子高齢化、そしてインターネットの普及で電子化が進み、ペーパーレスが進んでいる。同業会は現在66社でピーク時に比べ50%を下回った。世代もわれわれ2代目から3代目に交代しつつある」と過去からの流れを説明。
さらに、「今年4月に消費税が引き上げられた反動で需要が落ち込み、在庫が積み上がっているが、メーカーは減産を強化し需給バランスをとることで対処している。一方、卸商の中には市況が乱れているなか、安く売って拡販しようとする動きがある。大阪市場もその影響を受けて、価格を下げて売らざるを得ない状況になっている」と警鐘を鳴らした。
「卸商は何とかこの業界で残りたいという気持ちは強い。数量が落ち込んだなかで経営ができるような体質に合理化するなり、経営改革をすることに取り組むことが大切だと思う。その上で卸商の本分に立ち返り、やるべきこと―単に価格だけでなしに、顧客からの相談に応じた紙を提案できる営業マンを育てることが大切と思っている。
そういう意味で、同業会の意義が問われている。昔は親睦的な意味合いでスタートしたが、今はそのような時代ではない。我々は組合員の方々にやはり情報を正確に伝達していくことが大切。また、メーカー、代理店にものを言うときは、やはり団体として話をしていくこと」と、協調すべき時は結束をと訴えた。
来賓各氏の祝辞要旨は次のとおり。
共通認識を持つ必要
加藤康次郎大阪府紙商組合理事長(新生紙パルプ商事大阪支店取締役常務執行役員支店長)
過去50年を3分割してみると、最初の3分の1は成長期で次の3分の1は円熟期。残りの3分の1が減少期となる。数字を申し上げると、1995年に雑誌がピークを迎える。翌年の96年に書籍がピークとなり、合計の出版販売金額は2兆8千億円。直近の昨年の数字は1兆7千億円弱で、ピークの約6割に落ち込んでいる。
製紙業界の内需は、板紙とか段ボールのピークが少しずれたこともあり、2000年の3196万㌧がピークの数字。今年の製紙連合会の内需予想は2745万㌧であり、14年で14%ダウンした。単純計算で年率1%の減少だが、大阪の上期、特に端境期は1%どころか1割と言ってくれた方がピンとくるぐらい、非常に厳しい需要と感じている。
それではどうして行くか。この50年を機にお互い立ち止まって、共通認識を持つことが大切。50年前とは逆に、需要が減って行くという認識である。後で、数で帳尻を合わせるビジネスはもう成り立たなくなっている。
秩序のある競争というか、消耗戦ではない、本来の切磋琢磨の中から、おのずと答えが出てくると信じている。この厳しい変化に対応して、自ら変化をした人が次の役割を担っていくのではないかと思う。
逆風を利用する気概を
吉川正悟日本洋紙板紙卸商業組合理事長(吉川紙商事社長)
大変難しい時期だが、私が好きな言葉で色んなところで言っているのは、飛行機はアゲインストの風がないと離陸はできないということ。
やはり我々は、アゲインストの風が何するものぞ、というよりも、アゲインストの風を利用して成長し、伸びて行くのだと、それぐらいの気概を持ってやって行きたいと思っている。
先の見えない、大変厳しい時期と誰もが言われるが、私は答えが無い時代ではなく、答えのあり過ぎる時代――皆が一つの答えに向かって進んでいればいい時代ではなく、答えがあり過ぎる――ただし、カンニングの許されない時代。人真似をすれば正解が得られる時代ではない。
一人一人が自分で考え、自分の知恵を出して、生き抜いていく時代ではないかと考えている。
先般、私の知り合いで日本語の堪能なアメリカ人は、「日本人の知恵とユニークさにはいつも感心する」と言っていた。私が「何故?」と聞くと、「日本人は何時も危機的な状況だと言うが、そんなに危機的な顔をしていない」という。漢字の「危機」という字は、「危」が危険、リスクを示しているのに対して「機」はいい機会、チャンスを示している。
我々卸商は危機的状況だが、危険の方ばかり見ないで、機会の方をしっかり捉えていただきたい。そのリーダーシップをとるのが東京であり、大阪である。
生き残り懸けた実績示す
北村光雄大和板紙会長
大阪洋紙同業会の歩まれた50年はまさに社会と紙業界の激動の半世紀だった。私が日々経験した大阪の板紙業界の混乱と、洋紙同業会の過去を振り返ると、同業会にも生き残りを懸けて戦った尊い実績がある。
かつて黄板・チップボールがよく売れた時代に、業界では大変なことが起こっていた。
当時、摂津板紙の代理店は大同洋紙店(現国際紙パルプ商事)で、卸商は摂津の品物は大同から購入していた。摂津は都道府県に1社ずつ代理店を持つ方針だったが、大阪は近畿地区という大きなマーケットだったので、大菱(現オービシ)、興亜紙業、仲井好洋紙店(現ナカイコー)、森紙販売を代理店とし、この4社は大阪で代理店と卸商の2枚鑑札になった。
大阪市場ではこの4社を除く100社余の卸商は2枚鑑札の4社に太刀打ちできず、シェアをほとんど取られた。具体的には、摂津の後押しで大菱は景品付き販売―年間いくら販売するかで観劇券、弁当、お土産が付く―でシェアを伸ばした。また興亜、仲井好、森は仕入れが安いのを利用して安値販売をした。
これでは一般の卸商は立ち行かず、その苦悩を我々黄・チップメーカーにも持ち込んできた。そこで立ち上がったのが熊田洋紙店の故宮後周二専務。当時私は黄・チップ安定委員長をしていた。宮後君からの相談を受け、二人で石井繁夫理事長に業界の寂しい現状をお話した。石井理事長からは、「二人が命を張って、摂津の増田義雄社長に意見するように」という指示があった。
石井氏の話を受け、摂津の増田社長には、「増田さんのやり方では、メーカーはもとより、卸商も代理店も黄板・チップは過当競争に陥る。あなたによって我々は殺される。その前に我々はあなたの命をいただく」と詰め寄った。
すると70歳を過ぎた増田さんは、「あなたたちの言うことはよく分かった。ワシは君たちに悪いことをした。この歳になると命が惜しい。命だけは助けてくれ」と言われた。
そしてその場で大菱の景品販売は即時中止。そして2枚鑑札の4社に対して同業者が立ち行くように、同業者と同じ価格で紙を売るようにと指示した。こうして業界の安定が得られた。
大阪洋紙同業会の会員には、激動の半世紀を生き延びた知恵と経験がある。流通はメーカー事情、ユーザーが今何を求めているかを十分把握され、それを助けることが自らの存在に通ずると思う。
同業会の持つ機能は捨ててはならない大切なぬくもりのある作業である。皆さんはこの事を忘れず、同業者は何時までも紙業界の一員としてさらなるご発展をご祈念申し上げる。
紙をベースに枝葉を
野村正一日本紙パルプ商事関西支社常務執行役員支社長
理事長さんのお話で売り場が若干乱れているようにお聞きしたが、卸商さんは競争をしながら、共通した売り場を守られていると思う。
我々とすれば卸商さんは非常にありがたい存在で、その売り場をお借りしながら我々が黒子となって後ろからお力添えする格好だ。毛細血管のように相手さんに入り込んでもらえる皆さんのお力なくしては、我々第一次流通もなかなか成り立たないことははっきりしている。
これからもマーケットがシュリンクするとか予測データが良くないとか評論家みたいなことを言わずに、まずもって自社の業態変革を含めて皆様と共にやって行きたい。
40周年の歩みのところで、丸楽紙業の杉山紘司会長は、「過去と人(他人)は変えられないが、未来と自分は変えられる」と述べられたが、まさにそのとおり。
過去と比べると業界事情、業界の力関係は変わってきたかもしれないが、経営を任された人は、何としても、どんな形でも、今まで長きにわたった顧客の層に、相手の業態変化に応じた形で付いて行くことが大事。
ベースは紙・板紙であろうが、どうやって枝葉を張っていくかについては、顧客の層を考えながら、どういう接点の売り方をするかが大切だと思う。
業界の第3期これから
亀井照夫庫内相談役
大阪洋紙同業会の50年の歴史、紙業界はそれよりも古いが、近代日本の発祥といえばやはり明治維新。それから明治45年、大正15年。それから昭和の初期、第2次世界大戦に引っ張り込まれて、その終結が1945年。
ということは、過去約80年が近代日本の第1幕。第2幕は戦後で、まずは荒廃した戦後の状況を立て直す。そして日本の強みである経済の発展その他日本は世界に冠たる国として成長してきた。それが約20年。
そしてこの同業会が発足したのが昭和39年(1964年)。新幹線、カラーテレビ、そして諸外国の信頼を得て東京オリンピックと、戦後の日本を象徴する時期だった。
私もちょうどその頃、この業界に参加させていただいた。過去、同業会を育てられた方々、初代理事長の石井繁夫さん初め現在の藤本理事長の父上、それから乾紙業の乾隆太郎さん、私は業界に入って、こういった方々の教えを頂いた。
同業会の50年も前期と後期に分けられると思う。前半の25年は1985年のプラザ合意のあたりをピークとして、やはり好況期。それから1990年代に入って、後期となる。いわゆるバブル経済の崩壊があり、その後あまり好調とはいえない時期が続いた。
近代日本の第1幕、明治維新以降の80年と第2幕の戦後70年を加えて150年が経過し、これからが近代日本の第3幕となる。業界の今後は、それを担う皆様方の双肩に懸かっている。
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